悪性腫瘍摘出より一年
本日はトルコネタではないので興味のない方はどうぞスキップして下さいね。
一年前の今日、今頃は病院のベッドの上で、オペ室から戻り、
点滴やら心電図、酸素数値測定値、酸素マスクなどで、繋がれた状態でした。
手術から、一年です。明日からは乳がん2年生です(苦笑)
オペの4~5日前にトルコから帰国し、その後4月10日に入院。
11日にオペ、オペ中の迅速診断というもので、悪性腫瘍と判定、術中に母親と従妹が
癌告知を受けました。私はまだオペ中でした。
なんせトルコに住んでいるという事で、担当医師からも特別の配慮を頂き
現地と日本で、医師とメールのやりとりをしながらオペ日を設定し、
色々と術式に関して確認をしたり、と・・・・・
医師とこんな風に交流を持つことができる患者もなかなかいないのでは・・・と(^^;;
で、トルコ在住という事がカルテに記載されているようで、
他のドクター達や看護師さん達からも
「トルコに住んでらっしゃるんですよね~!」という話題から始まってました。
そんな感じで、非常に和やかな雰囲気のなか、オペ日を迎えました。
腕にネームタグをつけて、なぜか嬉しそうな私・・・・。能天気ですね・・・。
前日から入院も、仕事へ行く前の母が一緒に来てくれて、
早速病院での食事一食目(お昼)も、母と一緒に済ませて、母は仕事へ。
この日のランチ(病院食)はサンドイッチでした。
その後の沢山の検査も、いつもの検査と変わらないし、術前の医師の説明した内容への
同意もあっさり済ませたし、その時は叔母が付き添ってくれていたのですが
叔母といつも通りに世間話をし、叔母が帰ってからは、妹が顔を出してくれて。
夕飯は一人で済ませましたが、果物のイチゴが美味しかった記憶。
本当に病気とは無縁の人間ドックでも受けにきたような、そんな雰囲気でした。
飲食制限の21時前には、デザートで売店で買ってきたモンブランプリンを食べて
すっかり気分は休暇にでも来ているような、、、そんな感じでした。
窓側だったので気分も晴れやか?
でも、就寝時間が近づき、テレビを見ていても、集中できません。
寝ようと思っても、トルコから戻ってきたばかりで、時差ぼけもあって
なかなか寝付けません。読書をしながら、夜を過ごしましたが、寝付けず・・・・
不思議な感覚が私を包んでいました。
病院内の暖房が少し息苦しいような・・・。
翌日の手術に緊張していたんだとは思いますが、実はこの手術、
もともと、この手術は乳がんのオペとしては、予定されていませんでした。
乳がんの疑いがあるので、その問題部位を切除し、良性の腫瘍であれば
それでいいし、もし悪性(癌)腫瘍であれば、そのまま大きい範囲で部位を切除し
その部位を詳しい細胞検査にまわす、という内容でした。
因みに癌であっても、乳房温存術(胸を全部摘出ではない)で、放射線治療と
ホルモン剤を飲む程度だろうと、予想されていました。
ですからオペ中には、迅速診断という検査を行い、良性か悪性かが判別されてしまう、、、
という事に対して、不安を感じていたんだと思います。
その時はまだ自分が「癌」だという事を信じたくなかったから、
なるべく悪い方向へは考えずに、いい結果が出るだろうと願っていました。
結局あまり寝れずにオペ当日を迎えました。
前日の21時から飲食制限に入ったので、朝も何も食べる事はできませんできず
担当の研修医がやってきて(ちょっと小泉孝太郎似)点滴のルート確保。
その時に、針は刺さったけど、出血してた・・・。
あとは、術側の肩にマーキングをされたり
オペ中に血栓が発生しないように、圧縮タイツみたいなのも履かせられ・・
私のオペは正午の一番目で予約が入ってて、12時頃呼び出しがかかるとの事だったが
15分程早く呼ばれて、従妹のMちゃんの付き添いで、徒歩で中央手術室へ向かいました。
これは、その時の写真です(笑)まだまだ余裕のある顔してます。
キャップもかぶって
Mちゃんへ「行って来ます!」と気合十分に告げて中へ入ると、まだオペ室へは案内されず
再度名前の確認、どちら側の手術か、麻酔の説明などを受けた。
ちょっと拍子抜け(苦笑)
それから、今度こそオペ室へ移動。これも徒歩でした。
オペ室はかなりの数があるようで、廊下も長く、ひんやり寒かったです。
オペ室へ入ると、看護師さんや、麻酔科医も何人かいて、狭いベッドへ横になると
「寒くないですか」など、質問されながら、寒かったので下半身へ毛布かけてもらったり
そんな中、担当医の先生も登場して、「じゃ宜しくお願いします」との声を聞いて、
気づいたら、
「Turkceさん、ご気分いかがですかー?わかりますかー?」と、声だけが聞こえてくる。
まだ目は開けていなかったので、一生懸命私は
「Simdi saat kac? kac saat surdu? 」と、質問していた・・・(苦笑)
(「今何時ですか?何時間かかりましたか?」)
このやりとりが2~3回繰り返され、麻酔科の先生が
「トルコ語わからないよ~」と、皆で困ったような声を聞いた瞬間に
目覚めました(苦笑)
目が開いた瞬間に「あ~~~~すみません!!!!!」と、平謝り。
本当恥ずかしくて、顔から火が出そうでした。
看護師さん達は
「Turkceさん、凄いですね~さすが、トルコ人みたいですね!」って、言われながら
移動中も天井を眺め、若干複雑な心境になりつつ、ベッドはオペ室から術後管理室へ。
担当医師たちもその後やってきて、皆、トルコ語で会話をしていた私の話をして笑いながら
肝心なオペの話にはほぼ触れずじまい・・・。
ま、結果は悪性腫瘍があって、それを大きい範囲で取り除いたので(取り残しをしないためにも)
予定よりも、若干時間がかかったということと多少出血があったこと。
切除した腫瘍は細胞診へまわされ、早ければ2週間、遅ければ一ヶ月くらいかかるとの事でした。
オペ後も、超ハイテンションな状態で、喋るし、全く気分も悪くならずに、
その日のうちに、自分の病室へ帰りたいと願い出て、帰らせてもらいました。
普通は、一晩その管理室にいなきゃダメらしいのですが、、、
とにかく、自分が病人っていう感じが嫌で、酸素濃度測定器、ワイヤレスの心電図、点滴だけを
残し、全て外してもらいました。
実というと、私はオペ前も尿管も入れなかったですし
オペ用にT字帯というものも着用しませんでした。
一般的には、オペだと↑これらはされるはずなんですがね・・。
切った部分が小さかったからかな?
意外と傷もめだたず、ぱっと見だと切開して切除したとは、わからないかも?
細胞診の結果を待っている間が、最後の望みをかけていた時期でしたね。
けど、そんな希望も裏切る結果が待っているとは、その時は誰も知りませんでした。
一年前の髪の長い写真を見ていると別人だなと、しみじみ思います。
やっぱり髪の毛は、短いより長いほうが、個人的にはいいです。
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一年前の今日、今頃は病院のベッドの上で、オペ室から戻り、
点滴やら心電図、酸素数値測定値、酸素マスクなどで、繋がれた状態でした。
手術から、一年です。明日からは乳がん2年生です(苦笑)
オペの4~5日前にトルコから帰国し、その後4月10日に入院。
11日にオペ、オペ中の迅速診断というもので、悪性腫瘍と判定、術中に母親と従妹が
癌告知を受けました。私はまだオペ中でした。
なんせトルコに住んでいるという事で、担当医師からも特別の配慮を頂き
現地と日本で、医師とメールのやりとりをしながらオペ日を設定し、
色々と術式に関して確認をしたり、と・・・・・
医師とこんな風に交流を持つことができる患者もなかなかいないのでは・・・と(^^;;
で、トルコ在住という事がカルテに記載されているようで、
他のドクター達や看護師さん達からも
「トルコに住んでらっしゃるんですよね~!」という話題から始まってました。
そんな感じで、非常に和やかな雰囲気のなか、オペ日を迎えました。
腕にネームタグをつけて、なぜか嬉しそうな私・・・・。能天気ですね・・・。
前日から入院も、仕事へ行く前の母が一緒に来てくれて、
早速病院での食事一食目(お昼)も、母と一緒に済ませて、母は仕事へ。
この日のランチ(病院食)はサンドイッチでした。
その後の沢山の検査も、いつもの検査と変わらないし、術前の医師の説明した内容への
同意もあっさり済ませたし、その時は叔母が付き添ってくれていたのですが
叔母といつも通りに世間話をし、叔母が帰ってからは、妹が顔を出してくれて。
夕飯は一人で済ませましたが、果物のイチゴが美味しかった記憶。
本当に病気とは無縁の人間ドックでも受けにきたような、そんな雰囲気でした。
飲食制限の21時前には、デザートで売店で買ってきたモンブランプリンを食べて
すっかり気分は休暇にでも来ているような、、、そんな感じでした。
窓側だったので気分も晴れやか?
でも、就寝時間が近づき、テレビを見ていても、集中できません。
寝ようと思っても、トルコから戻ってきたばかりで、時差ぼけもあって
なかなか寝付けません。読書をしながら、夜を過ごしましたが、寝付けず・・・・
不思議な感覚が私を包んでいました。
病院内の暖房が少し息苦しいような・・・。
翌日の手術に緊張していたんだとは思いますが、実はこの手術、
もともと、この手術は乳がんのオペとしては、予定されていませんでした。
乳がんの疑いがあるので、その問題部位を切除し、良性の腫瘍であれば
それでいいし、もし悪性(癌)腫瘍であれば、そのまま大きい範囲で部位を切除し
その部位を詳しい細胞検査にまわす、という内容でした。
因みに癌であっても、乳房温存術(胸を全部摘出ではない)で、放射線治療と
ホルモン剤を飲む程度だろうと、予想されていました。
ですからオペ中には、迅速診断という検査を行い、良性か悪性かが判別されてしまう、、、
という事に対して、不安を感じていたんだと思います。
その時はまだ自分が「癌」だという事を信じたくなかったから、
なるべく悪い方向へは考えずに、いい結果が出るだろうと願っていました。
結局あまり寝れずにオペ当日を迎えました。
前日の21時から飲食制限に入ったので、朝も何も食べる事はできませんできず
担当の研修医がやってきて(ちょっと小泉孝太郎似)点滴のルート確保。
その時に、針は刺さったけど、出血してた・・・。
あとは、術側の肩にマーキングをされたり
オペ中に血栓が発生しないように、圧縮タイツみたいなのも履かせられ・・
私のオペは正午の一番目で予約が入ってて、12時頃呼び出しがかかるとの事だったが
15分程早く呼ばれて、従妹のMちゃんの付き添いで、徒歩で中央手術室へ向かいました。
これは、その時の写真です(笑)まだまだ余裕のある顔してます。
キャップもかぶって
Mちゃんへ「行って来ます!」と気合十分に告げて中へ入ると、まだオペ室へは案内されず
再度名前の確認、どちら側の手術か、麻酔の説明などを受けた。
ちょっと拍子抜け(苦笑)
それから、今度こそオペ室へ移動。これも徒歩でした。
オペ室はかなりの数があるようで、廊下も長く、ひんやり寒かったです。
オペ室へ入ると、看護師さんや、麻酔科医も何人かいて、狭いベッドへ横になると
「寒くないですか」など、質問されながら、寒かったので下半身へ毛布かけてもらったり
そんな中、担当医の先生も登場して、「じゃ宜しくお願いします」との声を聞いて、
気づいたら、
「Turkceさん、ご気分いかがですかー?わかりますかー?」と、声だけが聞こえてくる。
まだ目は開けていなかったので、一生懸命私は
「Simdi saat kac? kac saat surdu? 」と、質問していた・・・(苦笑)
(「今何時ですか?何時間かかりましたか?」)
このやりとりが2~3回繰り返され、麻酔科の先生が
「トルコ語わからないよ~」と、皆で困ったような声を聞いた瞬間に
目覚めました(苦笑)
目が開いた瞬間に「あ~~~~すみません!!!!!」と、平謝り。
本当恥ずかしくて、顔から火が出そうでした。
看護師さん達は
「Turkceさん、凄いですね~さすが、トルコ人みたいですね!」って、言われながら
移動中も天井を眺め、若干複雑な心境になりつつ、ベッドはオペ室から術後管理室へ。
担当医師たちもその後やってきて、皆、トルコ語で会話をしていた私の話をして笑いながら
肝心なオペの話にはほぼ触れずじまい・・・。
ま、結果は悪性腫瘍があって、それを大きい範囲で取り除いたので(取り残しをしないためにも)
予定よりも、若干時間がかかったということと多少出血があったこと。
切除した腫瘍は細胞診へまわされ、早ければ2週間、遅ければ一ヶ月くらいかかるとの事でした。
オペ後も、超ハイテンションな状態で、喋るし、全く気分も悪くならずに、
その日のうちに、自分の病室へ帰りたいと願い出て、帰らせてもらいました。
普通は、一晩その管理室にいなきゃダメらしいのですが、、、
とにかく、自分が病人っていう感じが嫌で、酸素濃度測定器、ワイヤレスの心電図、点滴だけを
残し、全て外してもらいました。
実というと、私はオペ前も尿管も入れなかったですし
オペ用にT字帯というものも着用しませんでした。
一般的には、オペだと↑これらはされるはずなんですがね・・。
切った部分が小さかったからかな?
意外と傷もめだたず、ぱっと見だと切開して切除したとは、わからないかも?
細胞診の結果を待っている間が、最後の望みをかけていた時期でしたね。
けど、そんな希望も裏切る結果が待っているとは、その時は誰も知りませんでした。
一年前の髪の長い写真を見ていると別人だなと、しみじみ思います。
やっぱり髪の毛は、短いより長いほうが、個人的にはいいです。
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by turkce | 2015-04-12 00:40 | 乳がん:手術